良い友人

友人が間違えていたら殴って止めるのが本当の友達だと何かの本で読みました。

 

しかし、それはきっと殴った側の友人の意見を聞き、殴られた側が納得できた人間の意見だと思うのです。

私は自分の意見と違うからとぶん殴ってくる人間が怖いので。苦手なので。失礼。とっても恐くて嫌いなので。ものすごく個人的な感情をたくさん込めて殴った側の友人を加害者と呼びます。そして、殴られた側はもちろん被害者です。

 

 

さて。まずは殴られて良い意味で意見を変える場合。その場合は被害者の内心で友人の意見にも一理あり、そちらの方が正しいと思う気持ちが少なからずあったからだと思うのです。

 

 

次に。殴られて悪い意味で意見を変える場合。これは、殴られるの痛いし。仕方ない。

シンプルに極端に。わかりやすく言うと。

筋トレしまくっている人間にぶん殴られて怒鳴られて。意見を変えなければ殴られる環境で意見を貫き続けられなんて極一部の人間だけだろう。というところです。人間は、そんなに強くないと思うのです。

 

殴られて意見を変えなかった場合はどうだろう。

被害者が、例え間違えていようと、心の底から本気で自分の意見が正しいと思っていた場合。あるいは加害者となった友人が自分とは相容れない信念や思想を持っていたら。きっと殴られた後に残るのは痛みと憎しみ、呆れ。そしてその先にあるのは訣別だと思うのです。だって問答無用で自らの意見と違かったら殴ってくる人間なんて怖いですし。

 

いくらか時間が経ってから友人の意見が正しかったと思うことはあるでしょうが、その時には気付けない視点や価値観があるじゃないですか。

 

 

加害者が自分が嫌われるのを覚悟して、本気で被害者を思い殴るのはとても良い友人だと言いますよね。

加害者が自分が嫌われるのを覚悟して、本気で自分の意見を押し付けるために殴るのは良い友人なのでしょうね。

加害者が自分が嫌われるのを覚悟して、本気で友人の意見を変えようとするのはさぞかし気持ちが良いでしょうね。

それは、被害者視点で考えてどうなるかを細かく考えていないのでしょうね。

 

 

私が思う、友人とはなんなのか考えてみたのです。

自分が経験して知っていることは情報として提供し、本人の意見を尊重し、もし間違えた道を進んで泣いていたら静かにそばにいて、「だから言ったじゃん。とりあえず飯でも食うか?」なんて言ってくれる人だと思うのです。

私は大切な人に対してそうありたいと思う。

都合いい人間ですかね。冷たいですかね?ごめんね。私の人との距離感はこんなもんなんだ。

寂しい夜に。

 寂しいと感じた時に何をしたらいいのだろうか。

 

 誰に助けてもらえば良いだろうか。

 

 好きな相手に連絡を取る。素直になれる友人と飲みに出かける。SNS等で仲良くなった価値観の合う人間と通話をする。名前も職業も知らない人間と一夜を過ごす。

 どれもその人が満たされるならそれで正解だと思う。もちろん一時的でもいいと思う満たされるなら。

 

 一人じゃない時間を作って誰かと過ごすのも良いと思う。一人で寂しい思いをするのは辛いものな。好きな人と話して幸せな気持ちになって寂しさを忘れるも。気の知れた友人と笑い合うのも。価値観の合う人と話して互いに好きな話で盛り上がるのも。体にしか価値を感じてない相手に抱かれて必要とされてると感じるのも。抱いて感情を精子とともに吐き出したつもりになるのも。良いじゃないか。たとえ一時的でも寂しさを忘れられるなら大いに結構。素敵じゃないか。

 

 だが、どうだろうか。寂しいと感じるたびにそれをしていて満たされるだろうか。

 自分が愛し合っていると信じている相手が自分を好きか不安になる時。寂しさを分かち合いたくても相手には伝わらないと実感した時。相手と自分の価値観が違い否定された時。行為が終わって自分への興味の無さを実感した時。満足感と引き換えに嫌悪感を感じた時。相手と自分のノリが合わない時。それでも場の空気に合わせて無理に明るく振る舞う時。

 

 寂しくないか?他人で自らの寂しさを埋めてばかりだと、誰かの感情次第で自分の寂しさはまた引きずり出されてしまうんじゃないだろうか。

 

 しかしSNSで簡単に人と繋がれる時代にわざわざ一人で寂しさを感じるなんて苦しい思いもしたくない。寂しい夜は誰かと居て自分は一人じゃないと感じたい。きっとそう思うだろう。

 

 それでもどうかたまにでいい。一人でその寂しさと向き合ってほしい。一人で自らを傷つけて苦しもうなんて話じゃないんだ。

 一人で寂しい夜に、寂しさを抱えて散歩に行こう。普段は人が多い道も人気がなくなり、いつもと違う世界を楽しめる。普段は何も思わない景色なのに寂しさを抱えて歩いている時にふと綺麗だと思える瞬間があるだろう。

 一人で寂しい夜に、自らの感情を何かに吐き出してみてほしい。紙に書いて自問自答でもいい。もしかしたら「死にたい」「寂しい」に隠れた自分でも気づかない感情に気づけるだろう。

 一人で寂しい夜に、映画を見たり小説を読んだり音楽を聴いて素直に感情を吐き出そう。寂しいと感じる一人の時じゃないと見れない視点があるだろう。誰にも見られていない時じゃないと吐き出せない感情があるだろう。

 

 そして、少しだけ自分の寂しいと言う感情も好きになってあげてほしい。

 

 寂しい時なんてものすごく苦しいけど、いつかその寂しさと向き合えるようになったらきっと毎回相手を探して相手がいなかったら苦しむ。なんて苦しさから少しは解放されるだろう。

最初に。

 私は人と会話するのが下手だ。

 

 あくまでその場で相手の言った事に対して反応して聞き返してその場限りの会話はできる。いや、もしかしたら次の話題を切り出すのは苦手だからやはりその場限りの会話も下手なのかもしれない。

 

 誰とでも話せるわけではないし相手の興味がある事を引き出して行こうと思っても相手がそのきっかけを提示してくれないと、やはりそれを引き出すこともできない。

となるとやはり私は会話が下手なのだろう。

 

 会話は相手とのキャッチボールとよく言うが、それを成立させるためにはお互いに相手の構える位置を察して、そこを狙ってボールを投げなければいけない。

 私の場合は、たまに相手からのボールを見て自分の中でそのボールをキャッチした気になり、相手が投げた物とは違うボールを、相手が思っているのと違うところに全力投球してしまうことがある。たまにじゃないな。かなりある。

 聞いて自分の中で返事をしたつもりになってしまうんだ。そしてそれに対して思ったことを少し途中の返答を吹っ飛ばして話してしまう。やはり下手だ。

 

 ならばどうだろう。私の意見なんて求めずにひたすら相手が永遠と話してくるだけの会話と呼んでいいのかわからないような物ならできるのか。これは下手とか以前に私がそれに付き合う気がない。何が楽しくて私の時間を相手の自己満足のための独りよがりな演説に付き合わねば行けないのか。残念ながら私はそこまでお前に興味がない。お前のことが好きな人間でも集めて配信でもしていてくれ。あれはバッテイングセンターでボールがくる位置に固定されて永遠にボールを投げつけられるような物じゃないか。昔邦画で見たな。ぶつけられていた人は死んでしまったっけ。私もそんなものに付き合わされたら心が死んでしまう。

 

 逆に私が相手に言って聞かせる話はと言うと。残念。私は相手が求めるような面白い話は提供できそうにない。ましてや配信で一人で永遠話すような独りよがりの演説もだめだ。あれは…素直に恥ずかしいし。そんな他人に堂々と話すほど私は私の中の感情や考え方をすぐに組み立てて言語化することができてない。

 

 ならなぜ私がこんな文章を書いているのか。人と話すのが苦手だから、自分の価値観や考え方に自信なんてないから、一度自分で自分を知るためにも文章にまとめてみようと思ったからだ。そしていっそのこと誰かにキッパリと否定されるなり、ほんの一部でも肯定されるのもありだと思ったからである。

 

 もしこれを読んだ貴方が欠片も私の意見に何も思うところがなかった場合は、こんな人間もいるのかと。自分と違う未知の生物に偶然遭遇してしまったとでも思ってほしい。

 

 ほんの少し私の我儘な願いを言うのであれば、この散文を読んでどこかの誰かの気が少しだけ楽になってくれたら私は嬉しい。書き手と読み手の対話に奇跡的に成功し、もしも貴方の心が少しだけ楽になるのだったら私が一人で苦しんだ過去が少し報われる気がするんだ。

 これは、本当は自信のない私の精一杯の虚勢の寄せ集めだ。人間はそんなに強くない。強くなくて良いと思う。

苦しかろうが辛かろうが私は今日まで生きている